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風の杜ができるまで青い字は風間さんの歴史です)
1959年10才で映画デビュー
管理人はまだ生まれておりませんでした。
 
1971年表現劇場旗揚げ 1972年風間杜夫として映画で再デビュー
管理人は小学生。当然まだ風間さんの存在すら知らず。
 
1976年テレビドラマ「娘たちの四季」で初レギュラー
このドラマは見ておらず、風間さんの存在にまだ気付かず。その後の「グッドバイ・ママ」「雲のじゅうたん」は時々見ていましたが、風間さんの記憶はなし(T_T)
 
1977年3月風間杜夫という役者を知る
「太陽にほえろ/絶叫」の再放送。始まったとたん「あ、この人知ってる!でも誰?名前は何?」と気になって、すぐに出演者のクレジットで「風間杜夫」という名前をチェック。この直前に本放送の「太陽にほえろ!」で風間さんがゲスト主役のエピソードを見たことが、おそらく頭のどこかに残っていたのだと思います。
このときはまだファンというほどではなく、気になる若手の俳優さんという程度。
1977年から78年にかけて、風間さんの年齢や、つかこうへい事務所の舞台に立っていること、子役出身で日活ロマンポルノでも活躍などなど、風間さんに関するデータを雑誌で偶然目することが続き、さらに意識するようになりました。
「七人の刑事」のゲスト出演をたまたま見たり、映画「皇帝のいない八月」のポスターに風間さんの名前を発見すると、「出てる出てる」と嬉しくなったものです。でも、わざわざ映画館に足を運ぶほど熱心ではありませんでした。
つかこうへい氏の小説「熱海殺人事件」を読んだのも、風間さんを知ったのと同じ頃。
つか氏も気になる作家だったので、風間さんがつか事務所に参加していると知ったときは、気になる人同士がつながっていた!と、なんだか嬉しかったです。
 
1979年5月初めて舞台を見る
仲間うちのあいだで美少年ものがプチ・ブーム。管理人も友達に影響されて「ベニスに死す」や「午後の曳航」を名画座に見に行ったりしました。ボーイズラブものも一部ではブームで雑誌「ジュネ」の創刊はこの頃だったと思います。
ボーイズラブものというのは、美少年同士の歎美な恋愛物語。稲垣足穂やジャン・ジュネにハマっていた友達もいましたが、私の性格には合わない世界だったので、結局深みにはハマりませんでした。
でも、そのボーイズラブ・ブームの頃、舞台「いつも心に太陽を」が大阪にやってきました。
後のテレビドラマ「ロマンス」の原型です。
東京で大人気のつか芝居。若い男性同士の恋愛物語。なおかつ出演はちょっとご贔屓の風間杜夫。新聞広告で公演を知り「これは見なくちゃ!」と、即チケットを買いました。
席は2階の最前列。舞台の上にはテレビで見るのとはまったく違う風間杜夫がいました。
歎美な美少年ものではありませんでしたが、それがかえって性に合い、つか芝居にすっかり魅了されました。
次回の公演も必ず行こうと心に誓ったものの、このときのときめきはまだまだ序の口でした。
 
1979年10月本格的に夢中になる
1979年10月。大阪でつか芝居三作品を連続上演。
3日間続けて見たことが、私の人生を変えました。
もともと好きだった風間さんですが、この連続公演のあと更に更にヒートアップ!
少しでも風間さんの出演作品を知りたくて古本屋をめぐっては映画雑誌のバックナンバーをあさり、出演ドラマのチェックにテレビ雑誌の立ち読みは欠かさないようになりました。
でも出演者の欄に名前が載らないことも多かったので、新番組のシーズンには一通りドラマはチェックして出演していないか確認していました。今思うとよくやるなあと感心しますが、それでも見逃すことが多くて、後でわかって泣いたりしていました(^▽^;)
この頃すでにファンクラブは存在していて、ファンクラブに入れば出演情報は教えてもらえたのですが、ファンクラブの存在自体を知らず、必死で風間さんのデータを集める日々でした。
まだマスコミで風間さんのことが取り上げられることはあまりなかったので、過去の出演作品をノートに書き出して、見た作品を思い出してはニヤニヤし、まだ見ぬ作品は内容を想像して、楽しんでいました。
 
1982年 「蒲田行進曲」映画化 つか事務所解散
1979年につか芝居に出会い、1982年に解散するまで、夢中で公演を観てきました。
ただ一番熱くなっていたのはは1979年1980年で、そのあとは少しずつ落ち着いていきました。
1982年頃になると、2時間ドラマでひんぱんに風間さんの顔を見るようになっていましたし、一時の飢餓感はなくなって余裕を持って応援していたように思います。
とはいうものの、ようやく女性雑誌に取り上げられるようになった頃で、発見するたびに本屋さんで飛び上がって喜んでいました。
映画「蒲田行進曲」が大ヒットし、銀ちゃん役の風間さんは一躍「もっとも女子大生に人気のある俳優」(^。^)と言われるようになりました。
「つか芝居の風間さん」が「スター・風間」になり、淋しくてスネるような気持ちがなかったとは言えませんが、素直に嬉しい気持ちのほうが勝っていたように思います。
でも、まだこの後に、もっとすごいブームがやってこようとは・・・!
 
1983年「スチュワーデス物語」大ヒット
1983年秋、いまだに語り継がれるテレビドラマ「スチュワーデス物語」が始まりました。
なにもかも過剰なこのドラマが、その「変さ」も含めて大ウケし、風間さんの人気も女子大生から、中学生にまで広がっていきました。
この頃の管理人は、つか事務所が解散してしまった喪失感もあったのでしょう。世間の熱狂と反比例するように、冷静になっていったような気がします。
最初は大喜びしていた女性雑誌の記事も、あまりに数が多いのでだんだん立ち読みで済ませるようになり、大切にとってあったはずの切り抜きも、あるとき捨ててしまいました。(もっともつか事務所時代の切り抜きはどうしても捨てられませんでしたが・・・)
出演作品は一応ほとんど見ていましたが、私が忙しかったこともあり、少し冷めていた時期です。
資料収集目的の古書店通いからも、いつの間にか足が遠のくようになっていました。
 
復活!
1980年代後半、また風間さんにドキドキしていることを発見。10代の頃のようなパワーはないし、熱狂的ともいえないけれど、またマメに風間さんの番組をチェックするようになりました。
1989年にワープロを買い、どうせタイピングの練習をするなら好きなもので・・・と、風間さんのそれまでの作品をまとめて表にすることを思い立ちました。
以前集めた資料と自分の記憶に、新たに映画雑誌で調べたスタッフデータも加えて、まずは映画の一覧表を作りました。この作業が思いのほか面白く、その後、舞台、テレビと時間をかけて増やしていきました。
一度一覧表を作ってしまえば、後は新しい仕事があるたびにそこに加えていくだけですから、たいして手間はかかりません。
この作品データをインターネットで公開するようになるとは、このときはもちろん想像もしていませんでした。
 
1998年インターネットにハマる
1998年暮れに初代のワープロが壊れ、2台目のワープロを購入しました。世はそろそろパソコン時代でしたが、PCは予算オーバーだったので、インターネットに接続できるワープロを買いました。初めてインターネットに接続し、検索した言葉はもちろん「風間杜夫」(ファンはみんなそうですよね?)
たぶんYahooで検索したのだと思いますが、800件ほどヒットして感激したものです。
その当時、風間さんのファンサイトもありましたが、出演作品についてのページはありませんでした。よく掲示板に「風間さんの〇〇という作品について教えてください」という書き込みがあったのですが、あまり反応はなかったように思います。誰も答えないなら私が・・・と思って書き込みしたこともありましたが、そういう質問を目にしているうちに、自分の持っている作品リストを公開すればいいのでは?と思うようになりました。
でもワープロでホームページの作成は無理。悩んだ末の1999年11月、格安パソコンを購入。
12月にはろくにPCを使いこなせないまま、HPをOPENさせていました。
 
1999年12月「風の杜」OPEN
最初は作品リストと最新情報しかありませんでした。
その後、徐々にいろんなコンテンツを増やしていき、今に至っています。
最初はワケがわからず闇雲に作ったものを、2001年5月にリニューアル。
そしてHPを移転した2001年12月に、二度目のリニューアルをしました。

たまに「管理人さんは風間さんのお知り合い?」と聞かれることがあるのですが、残念ながら違います。私にとっての風間さんは舞台の上や映像の中の人で、個人的なつながりは一切ありません。
このHPを見てくださった皆さんが、風間さんの精力的な仕事ぶりを作品リストを通して再認識し、その魅力を少しでも感じてくださればこんなに嬉しいことはありません。
まだまだ不完全ではありますが、これからも地道に風間情報を充実させていきたいと思っています。どうぞ、長い目で見守ってやってください。
よろしくお願いいたします。

2002年1月8日 管理人・takkin

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